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京都の魔界観光【洛中案内】

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京都の魔界観光【洛中案内】

京の都で「魔界」という言葉をいうとき、そこには特別な思いが含まれる。
怪奇幻想にみちた物の怪の跡、恨みを残して死んだ物の慰霊を祀る鎮魂の寺社、人々の憎悪の念にまみれた呪いの生霊の俗伝。
京都「魔界」にまつわる伝承の数々をご紹介します。

清明神社

陰陽師で知られる安倍清明の邸宅があったとされ、平安京の鬼門封じの最後の砦として、のちに清明を祀ったのが始まりです。そもそもここは平安時代の大内裏の鬼門(北東)にあたる地。地図を広げると、比叡山には延暦寺、その麓には赤山禅院と北東の方角には鬼門封じの仕掛けが施されています。大内裏に近い清明の邸宅は最後の封じ場所だったのです。
清明の邸宅では、蔀度や門戸がひとりでに開け閉めされたという奇妙な現象が清明の操る式神の仕業であると伝えられている。

京都市上京区堀川通一条上ル806

一條戻り橋

一條戻り橋i清明神社の程近い、堀川に掛かる一條戻り橋は、魑魅魍魎にまつわる伝説が数多くある、京都屈指の魔界スポットです。清明が使役としていた十二体の式神たちは醜い容貌だったので、妻が恐れて一緒に暮らすことできなかった。そこで、清明は一條戻り橋の下の石積のなかに式神を隠し必要なときに呼び出していたというエピソードもあります。
また、六角獄舎囚人の死刑執行日、二条城の南に設置された牢屋から刑場まで洛中を引き廻されるルートにも入っていました。囚人たちは、冥途の出入り口とされる戻り橋で真人間として再生されることを願いました。

京都市上京区堀川下之町

北野天満宮

北野天満宮北野天満宮は「学問の神様」として菅原道真公が崇敬を集める京都で賑わいが経たない全国の天満宮の総本山です。
しかし、その歴史は神にならざるを得なかった道真公の不幸が見えます。
道真公は幼いころから文芸の才を発揮し、学者、官吏となった後、異例の早さで出世し右大臣の地位まで昇り詰めました。ところがこれに嫉妬した藤原時平らが道真公を失脚させるために天皇に嘘の告げ口をして、道真公を九州・大宰府へ左遷させました。そして故郷の土を二度と踏むこことなく、二年後にこの世を去りました。
それから間もなく、都では藤原時平ら陰謀に関わった人々が次々に亡くなり、さらに都では水害や疫病などの天変地異が頻発しました。宮中でも醍醐天皇や皇子が亡くなり、御所も落雷で焼失する惨事まで起こり、やがて人々は「これは道真公の祟りに違いない」と囁き合うようになりました。
そんな折、荒ぶる道真公の魂は多治比文子(たじひあやこ)という巫女に乗り移り、自分の霊を北野の地に祀るよう指示しました。いわゆる託宣(神様のお告げ)です。
これをうけ人々は道真公の慰霊に取り組み、今も北野神社境内奥に末社文子天満宮がひっそりと佇んでいます。
その後、道真公が起こした雷の祟りと、以前から五穀豊穣を祈って北野に祀られた雷神の信仰が結びつき、菅原道真公を神とする天神信仰が全国に広まりました。
まさに、悲しき道真公の霊を「託宣」により神とした歴史の地です。

京都市上京区馬喰町

鵺大明神

宮中を恐怖に陥れた鵺。夜の闇に潜み暗闇に怪しい泣き声を響かせる魔物。
鵺の存在は「平家物語」や「源平盛衰記」に登場する源頼政の武勇伝にあります。時の帝(近衛天皇、後白河法皇、二条院など諸説あり)が御所の上空を暗雲が漂った真夜中、不気味な泣き声を聞きやがて病の床に伏せりました。祈禱や薬の効果のなく、側近の弓の名手である頼政に化け物退治を命じました。
ある晩、頼政が黒雲に向かって弓矢を放つと、頭が猿、胴は狸、足は虎、尾は蛇という化け物が落ちてきた。これを鵺とは断定していないが、鵺らしいに魔物は、現在の二条城の北あたりに落ち、頼政は鵺を退治した矢じりに付いた血をそばの池で洗い落とした。その池こそ鵺池で、鵺大明神創始の先駆けとなるスポットです。

京都市上京区主税町964

蜘蛛塚

京都には蜘蛛にまつわる伝説は多い。それも「土蜘蛛」という物に怪にまつわる奇談です。
深夜、瘧病(おこりやまい)に苦しんでいた源頼光のもとに、丈七尺(約2.1メートル)ほどある法師姿の大男が、手にした縄を頼光に投げかけたが、頼光はすかさず刀で斬り付けた。その大男の血痕をたどると、頼光と家臣たちは北野天満宮の後にある大きな塚にたどり着く。そこから出てきた四尺もの大きさの蜘蛛を退治したら、頼光の病が回復した。京都には土蜘蛛にゆかりの場所は、上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)の墓地内にある源頼光朝臣塚と北野天満宮参道近くにある、北野東向観音寺の中の一角にある土蜘蛛塚の二箇所ある。

上品蓮台寺(京都市北区紫野十二坊町33−1

東向観音寺(京都市上京区今小路御前西入上観音寺門前

白峯神社

白峯神宮外観白峯神社は創建したのは明治天皇で祭神として祀られているのは崇徳上皇である。
怨霊と化した崇徳上皇ゆかりの神社として注目を集めています。
崇徳は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、白河法皇の院政下、五歳で天皇に即位。しかし父、白河法皇との軋轢がもとで二十三歳の若さで天皇の座を弟の近衛に明け渡し上皇として隠居させられる。また、わが子に託した皇位継承の望みも法皇の圧力で絶たれ、父への憎悪は増すばかりであった。鳥羽法皇の病死後、崇徳は法皇になり弟の後白河天皇と対立、両者の争いは「保元の乱」と発展し敗者となった崇徳は出家ののち讃岐・白峯に配流されました。
都から讃岐へ流された崇徳上皇は自分の中に宿る悪しき心と対峙し「この地で息絶えた時、私の魂は鬼に代わるかもしれない。そうならないように努めよう」と、五部大乗経を熱心に写しお経を京の寺に奉納することを決めた。
しかし、崇徳上皇の真摯な思いは都から追放された人間の書いたものが、経文であろうと都に置くことはならないと、朝廷から送り返されました。これに憤った崇徳上皇はその経文を鬼神(きじん)にささげ「自分は悪神となって天皇一族を倒しそれ以外の民を支配者に立てる」と、京都の王朝に呪いをかけた。
崇徳上皇はその後、髪や爪を伸ばし放題にし夜叉のような姿になり、生きながら天狗になったという言い伝えもあるが、こうして崇徳上皇は悪霊になる道を選び、八年間の配流生活ののちこの世を去った。崇徳上皇の遺体は白峯山に運ぶ際、天がにわかに曇り雷雨となりその柩から血がほとばしり出たという。
崇徳上皇の呪いは死後に生じた大火や飢饉、武士の騒乱などが相次いで起こり、さらには鎌倉幕府成立によって「天皇家以外の民を支配者に」という呪詛が的中する。
幕末の動乱の果て明治天皇によって、神として帰京を果たした崇徳上皇の荒ぶる魂は、無事に京都の地に鎮められている。
今は、蹴鞠の名家のゆかりの神として球技、特にサッカーの上達を祈願する参拝客が跡を絶たない。

京都市上京区今出川堀川東入飛鳥井261

積善院

聖護院塔頭寺院のひとつ、積善院の境内には「人喰い地蔵」という呼び名の恐ろしい地蔵さんが佇んでいます。天変地異に悩まされた都人が崇徳上皇の怨霊をなんとか鎮めようと建立。当初のよびなは「すとくいんじぞう」だったともいわれたが、いつの間にか「人喰い地蔵」と呼ばれるようになった。都人の崇徳上皇に対する恐怖心がどれほどのものかが分かります。

京都市左京区聖護院中町14

矢田寺

矢田寺の罪人たちを懸命に救う矢田地蔵を描いた「矢田地蔵縁起絵巻」は次のように伝えている。寺を開山した満慶上人は徳の高い僧で、現世と冥界を行き来した小野篂(おののたかむら)が弟子入りを望んだほどだった。地獄で閻魔法王を補佐していた小野篂は、不安や悩みに苛まれた閻魔法王のために、満慶上人を地獄へ招きました。上人は閻魔法王に菩薩戒を授けることで苦を取り除くことができ、御礼に地獄の見学を許されました。どこで炎を浴びながら罪人を救う地蔵菩薩に遭遇した上人は現世に戻り矢田地蔵を彫らせました。
矢田寺には、小野篂が冥途通いに使った井戸を有する六道珍皇寺の「迎え鐘」と対をなす「送り鐘」があります。矢田寺の「矢田地蔵縁起絵巻」と送り鐘は見ることの出来ない地獄の世界を物語ります。

京都市中京区寺町通三条上る天性寺前町523

千本閻魔堂

千本えんま堂閻魔法王を本尊として祀る寺院、正式名称は高野山真言宗「引接寺(いんじょうじ)」。その名のとおり、死者に引導(引接)を渡すところとして古くから知られている。
かって平安京の内裏の北側に蓮台野という大きな葬場がありました。現在の船岡山の麓です。葬場は都で死んだ人々は、やがてその地に葬られ、亡者は冥途に向かう前に、閻魔法王の裁判を受けなければなりません。千本閻魔堂は、冥途の一歩手前、蓮台野葬場の入り口に位置します。
この寺の開祖は現世と冥途を行き来して、閻魔法王に仕えていたという小野篂(おののたかむら)です。あるとき小野篂は、閻魔法王に自らを船岡山の麓に祀るように命じられました。小野篂は命により閻魔像を彫りそれを祀ったところ「閻魔堂」と名づけられました。
閻魔法王は恐ろしい外見とは違い、人間に最も近い仏様として古くから親しまれ信仰を集めています。

京都市上京区千本芦山寺上閻魔前3

続きは、「京都の魔界観光【洛北案内①】」へ

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